知ると分かると解るの違い

生まれてから34年初めて、

この言葉の違いを理解したような気がする。


道路で例えれば、

知るというのは、

  地図でルートをなぞった状態

分かるというのは、

  実際一度行ってみた状態

解るは、

  何も考えなくても、手が勝手にハンドルを動かす状態

というような気がする。



今までの私は、 


  知る=解る 


という幻想にはまってしまい、

実際には出来もしないことを理解していたように

錯覚してしまっていた。

その錯覚(これは周りの人間にも錯覚させてしまう)

のためにどれほど、

周りの人たちや自分自身に損失を与えてきただろう。

まあまだ半分以上人生が残っているうちに分かっただけ

でもよかったとしよう。


ついでにネットを調べていたらこんなのを見つけた。

大井川に橋をかけなかった話。

よく東西の文化と言われるけど、

もしかしたらその起源ってここにあるのかな?

大井川を起点に違いを調べてみるというのも面白いかもしれない。

知って 解った

知って やった

やって 知った

は ある

知って 解った

も ある

だが 解って 知った

は ない

解ることは 知ることからの

一方通行



知ることと理解することの違い

知識を経験にまで引き上げるにはどうしたらよいか。
知るということは理解するということではない、たしかに知るということは必要 なことですが最終のゴールではない。知識のレベル、記憶のレベルで止まらず、あなた自身の経験になってはじめて先伸ばし人生をストップさせ、はじめてあなたの火の車をゴールに辿らせることができる。
「知る対象と、それを知る者、その向こうにその両方を同時に観察している者がいる、それがあなたです。それを自己想起という」
知るということは、見るということの次のプロセスです。
見るという行為、見られる対象、その向こうにその両方を見ている者がいる、それがあなたですと前に言いました。
何をあなたは知ったのですか。
知ったあなたと、知った対象そのものです。その架け橋が知識です。
ですがあなたはいつも知ったものだけに注目して、そこに知ったあなたがいることを忘れている。知識が、知ったあなたを想い出させる架け橋だということを知らない。せっかくそこに架け橋があるのに、あなたは渡ろうとしない。渡らない橋は意味がない。それがあなたの無意味な知識です。
渡るという行動があってはじめて橋の価値が生まれるのです。
昔、江戸幕府を開いた徳川家康は大井川にあえて橋を架けなかった。東の江戸と西の浪花との間での人の交流、情報の交流を制限するためです。余計な知識(江戸幕府にとって余計なだけで、一般のひとたちにとっては大事な知識なのですが)を民衆に持たせないためです。
かつての共産主義社会とまったく同じ政策です。国内を安定させるためだと徳川家康は思ったのですが、国内ではなく、徳川家を安定させるためが本音です。その証明が大井川に橋を架けなかったことです。国内を安定させることと、大井川に橋を架けないこととどういう関係があるのでしょうか。まったく関係ありません。
かえって民衆は生活に困る。民衆の生活に困ることをする政策が安定の政策だというのですか。それは強制による渋滞です。情報閉鎖です。決して自然の道理にかなった安定ではありません。これは独裁ではなく独断、独善です。
織田信長は独裁です。
独断、独善はその個人によって立つところのものであり、独裁はその公共によって独りたつところのものであります。
彼はそれまで神社、仏閣の収入源であった関所を全部取りはずして、民が自由に移住、旅を出来るようにしました。そしてそのために治安をよくしました。それによって大量の情報が自由に伝わるようになりました。情報開示です。
共産主義国家がなぜ崩壊したか、情報閉鎖の壁を情報開示が打ち破ったからです。
ですが壁の中でいるのが安全です、安定だと人間は思っている。
安全、安定を望むということ。これがエゴの巧妙なトリックで、あなたは毎日、ふわふわと漂う雲の上に乗って生きている安定だということに気がつかないのです。足下の雲はあっちに行ったり、こっちに来たり、ときには消えたり、現れたりするのに、あなたはまったく気づいていない。情報閉鎖を自分で自分にしているのです。
せっかく架けた知識の橋を渡らないと本当のことが見えない。
知る者がこちら側、知る対象があちら側、その間に知識という橋が掛かっている。
この橋の真ん中で立ち止まって下を見てみる。
そこに見えるのは深淵な谷底です。存在そのものです。神とも言っていい。宇宙とも言ってもよい。その深淵な谷底を橋の真ん中で見ているあなたが観察しているあなたです。深淵な谷底はその観察者のあなたにだけに姿を見せてくれる。
ただし、知識という架け橋の真ん中でだけです。
グルジェフはこれを自己想起と言った。
釈迦はこれを中道の精神の教えで、八正道の正見と言った。
自己想起・正見・自己客観視。
あなたが気に入ったものを選べばよい。
http://www.satoshi-nitta.com/short-story/advanced-88.htm